堂本剛平安神宮2018
夢の中に忘れ物をしたような気がする。
際限なく溢れていたはずの言葉が、夢から覚めた時にはこの手に残っていなかった。
夢は琥珀のように言葉を閉じ込める。
__2018年9月2日。
古と今が交わる平安神宮にて、堂本剛さんの奉納演奏を見てきました。
その感想……と言ったら平易になってしまうような気もする、感想、感動、うーん、とにかく浮かんだ言葉を書いておきたいと思う。
前夜の高揚というか、ほとんど怒りの擲り書きも放ってあるのでそちらも合わせて残しておきたい。
開場時間前17時台に平安神宮を訪れ参拝
ステージではバンドメンバーの皆様が音合わせをしていて、時折「ばっちりじゃん!」なんて声が聞こえて和やかな雰囲気だった。
境内の絵馬には剛さんの耳の治癒と平穏を祈る言葉が詰まっていて胸が柔く締め付けられて目が潤んだ。
そうだよなぁ。祈りの時間だよなぁ。
18時に一旦閉門し、18時半に改めて開場。
普段立ち入ることのない夜の平安神宮は時が止まったように神々しく、艶やかで、そして美しかった。
神主さんが舞台と私達をお祓いしてくださったのも印象的。
開場中からスモークが焚かれていて、どうしてだろうと疑問に思っていたがその理由はすぐに気付くことになる。
ともかくそのスモークのおかげもあって霞む白さの向こうに佇む平安神宮の朱さがとにかく幻想的で、この世のものとは思えなくて、きっと世界から切り取られたんだと仮定して納得した。
そう、世界のすべて、という箱庭の心地がしていた。
ついに時が満ちた。
OPはHYBRID FUNK。
未来へ FUNK
時のHYBRID FUNK
PAST FUTURE 絡み合った FUNK未来へFUNK
愛のHYBRID FUNK
PAST FUTURE 愛し合った FUNK
まさかこの曲からとは少し意外。
でも私が冒頭古と今が交わると書いたように、そんな特別な場所だからこそこの曲がしっくりと腑に落ちた。
綺麗な空気は光らない。
焚かれていたスモークの意味をようやく理解し、その美しさに思わず涙が溢れた。
今まで見たどの会場より広く感じて、どこまでも続くまっすぐな光だった。
風が揺れる。光に濃淡が脈打つ。
計算され尽くした演出だってこの景色は作れない。
去な宇宙(スペース)ではシャボン玉がレーザーの中を舞って、反射して、プリズムスペクトルがまるで星のようで、瞬いて、消えて、夢のようだった。
あんなに美しい満天の星空見たことない。
もうただただあっと圧倒されて、初めて見る絶景に唖然として、その煌めき一つ一つを私は一生忘れたくない。
この2時間で一番驚いたし、感激したのはその景色だったような気がする。
そして水が吹き上がる。
水を使った演出は水と人間の歴史の都合「富」というイメージが先行してしまうのだが、今回の水は「自然」そのもので、制御されているにも関わらず意思を感じた。
そして炎が灯る。
あたたかな安らぎの色と何かが宿っているような揺らめき。炎はどうしても戦闘民族の身として闘志に直結してしまうのだが、なんだか妙に安心した。
FUNK sessionも当然の如く最高だったよ〜〜;;;;指先一つで音楽を統べてグルーヴを生み出すなんてまさに創造主じゃん?!などと取り乱していた。
ライブを通して始めの方のセクションではベース、途中シンセ、最後のセッションではギターをかき鳴らしていて最高だった。最高しか言えてない。まずい。
基本的には玉砂利を踏みしめ立ったまま静かに拝聴する、という雰囲気だったんだけど、やっぱりこの辺りになると皆体揺らしたりクラップしたりしていてとてもあがった。
とてつもなく泣いてしまったのは個人的には空が泣くからとRainbow gradationだった。
空が泣くから、とてもとても大好きな曲で、聴くだけでぎゅっと目を閉じたくなる。そんな大切な曲が、あんなに素敵なアレンジで奏でられるなんて。
大サビ前に一際高々と水が打ち上げられて、これ以上昇れないという頂点から一気に降り注ぐ様に心が濡れた。
晴れた空が泣くことって、基本的にはないじゃないですか。
天気雨はまぁ……珍しいけど。
輝く星空が泣くことも、澄んだ青空が泣くこともない。
だから不思議だった。綺麗な空の泣き顔だった。
そしてRainbow gradationは、もう何千回と言われているだろうけれど、今の彼が「愛しているよ 君のこと」と歌ってくれたこと、どれだけ嬉しいか。
今回セトリの中に何度か「待ち合わせしたような」という歌詞があったような気がするのだけど、彼にとって運命めいたもの……愛や縁はそういう感覚なのかなぁ。
ひとは何故か 突然 いなくなってしまう
この言葉はもちろん時期的に魂になった、成ったというのもおかしいかな、体を脱いだ宮司様のことが過ったりもするけれど(実際そうも話していたし)、彼の常の感覚なのかもしれないとも思う。
「ひとは何故死ぬのに生きるのか」
と問われた時、私自身は「死んでからのことは分からないけれど、生きている今"生きていなきゃできないだろう"と思うことが存在するのなら、それをするために生きている」なんて答えたりもしたけれど、彼のライブ特に今回の奉納演奏を見ているとなんだか違う考えも浮かんでくる。
「死んでいくこと、それが生きることなのかな」
不可逆の時間を消費して、あと何回鼓動を鳴らすかも決まっていて、その中で何をどうして生きるのか。
死に方が生き方なのかな、なんて漠然とそう思った。
剛さんの音楽は飾らずいつでも当たり前の生死と輪廻が宿っていて、それを忘れた愚かな人間をほんの少し皮肉めいてせせら笑っていて、一度きりの人生を愛そうと詩ってくれる。
ライブはセックス、と言う某KAT-TUNさん達の言葉が大好きで、「声出せねぇなら命はねぇからな」と割と本気で脅されていた身としてはライブは生死と背中合わせで、つまり三段論法でこれらはイコールで結ばれるのだけど、私はこうしてエンタメを愛して生きることができて本当に幸せ。
ライブはセックスで、ライブは生死で、セックスなんて生死の境目みたいなもので、生きることと死ぬことを愛すのは筋が通ってるなぁなんて感心してしまう。
命を削ってステージに立ってくれる皆に私は残された鼓動を限界まで高鳴らせて生きたいんだよ〜〜〜〜。
随分話が逸れました。
彼が今年奉納した
自分を愛することの難しさ、大切さ。そしてその果てにある他人を愛することの大切さ、難しさ。
というテーマの演奏は、今を生きる私達にとってあまりに痛いところで、それは彼にとっても同じことだと思う。
難しさ、大切さ、の語順は偶然かもしれないけれどこう並べていて胸が痛かった。
自分はそれを怠った。そう剛さんははっきりと告白してくれた。
私は上に引っ張ってきた記事にも書いたように、剛さんの運命とそれを決めた神様と周りを恨んでいた。それがいかに残酷で嘆かわしいことだったか。
……なんて言っても本当はまだ許せてなんかいないけどね。そういう宗派だから、私。傷を風化なんて絶対にしてあげない。
でもその告白のおかげで、どれだけそれが切なる祈りだかがわかった。
誰よりも自愛の大切さをわかっている人だと思っていたから、その言葉の重みを私は抱きしめたい。
「「壁は乗り越えられるから目の前に立ちはだかるものだ、越えられない試練は与えられない」そんな思想では生きていない。」そう彼は言った。
その中でどう向き合っていくのか、どう自分を愛せばいいのか。その方が大切な命題だと思う、自分は。と。
一見諦めのようにも聞こえるこの言葉は群衆に聞かせるにはあまりにもリスキーだと思うのだけれど、彼はあえてあの場所だから口にしたんだと思う。
「場所を変えたら宗教だとか変わってると言われることもあります」なんて生々しく言っていて、ぞっとしたけどその通りだと思った。
全ての演奏が終わってそうしたことをすらすらと話す彼はいつものように小洒落て笑いを誘うこともなく、静かに、ただ静かに語っていた。
最後の最後に「お気をつけてお帰りくださいね。また雨が降ってきてしまうかもしれないから」と言う時だけふっと表情を和らげて微笑んで、それがとても優しかった。
無事に終わって本当によかったね。
翌日には随分と台風で荒れたけれど、体調は大丈夫だったかな、なんてやはり心配は絶えなくて、でも、彼は「皆が求めてくれる自分に戻りたいとは思っている」なんて言っていて、追い詰めてないかな、とほんの少し不安になる。
いいんだよ。いつのあなたも等しく好きだから。
美味しいものを食べて、大好きな音楽を奏でて、素敵な人と笑って、そうして健やかに生きてくれればいいんだよ。
合同参拝ではそんな未来とこの世界の安泰を祈って幕は下りた。
__少し琥珀を覗いてみようと思う。
光に透かして、角度を変えて、なるべく多くの言葉を見つけたい。
見つけ次第またここに書き残そうと思う。
これはすべて、あの時間に湧いた言葉。
絵巻を彷徨う。
星屑と踊る。
龍が翔ける。
驟雨が還る。
歴史の白兵戦。
咲き戻る美。
赤と青は仲違いをやめる。
秘すれば花。
劈くのは雷鳴。
掴めない宙(そら)。
星だって瞬くの。
悲哀の錦綾。